こんばんは🐥
「ドーナツショップ」
(ミスドのテーマ曲👶🍩??)
そんなほのぼのした曲ではございません🙅♂️!
真剣に聴くと死にたくなってしまうこの歌に
「ドーナツショップ」という曲名を付けてしまう尾崎豊はぶっ飛んでいます、、
恐らく尾崎豊自身の「人間としての脆さや弱さ」が垂れ流しにされているのではないかと、、
歌詞を熟考したのでご覧ください🐥!
(病んでる人は注意)
の前にお聴きください🎧
以下歌詞の考察です🤔
"あの頃僕が見ていた ガードレール越しの黄昏"
歌い出しのこの景色が、曲の後半で鍵を握ります🙈
この"黄昏た街"の風景を覚えておいて下さい!
"空の色をすこしだけ口にしても 本当はコンクリートの街並みが寂しんだよって俯いた"
「夕陽がきれい」などと口にして心が動いたような素振りをしてみたものの、実際はこの街で何も感じることができず孤独なのだと思います。
"Fu、、、僕は探し続けている"
探しているのは「真実」であると後の歌詞で明らかになります。
「真実」とは何でしょう🤔?
"ドーナツショップに流れる音楽に足を止め 今日の君は泣きたい気分なのと目を伏せてた"
むぎはこの歌で出てくる"僕"も"君"も尾崎自身だと解釈しています🐥
「ドーナツショップ」には特に理由はなく、日常でありふれているものの象徴として使っているそうです。
ありふれた店からありふれた音楽、、
そこから泣きたくなるような切なさを感じてしまっています、、
"人や車の流れを自分の寂しさのように見ていた"
「人や車の流れ」はやはり日常の風景です。
ありふれた日常の風景にさえ寂しさを感じてしまっているのです、、、
"ねぇ僕らの感じることはこれだけのことなの"
この世にある全てに対して「寂しさ」しか感じることができないの?という、、
"スタンドの油だらけの壁と同じくらい黄昏た街"
ここで歌い出しに出てきたあの風景が出てきます!
"黄昏た街"と"油だらけの壁"
ここで2つが同等に扱われています🤔
夕陽に趣を感じたように見せようとしましたが
尾崎にとって、"黄昏た街"と"油だらけの壁"には違いは無く、切なさしか感じないのです、、
"僕は何度もつぶやいた 本当は何もかも違うんだ わかってよ"
日常に溢れた何もかもが自分にとっては苦しみでしかない。
この街に自分の居場所はどこにもないという風に感じていると読み取れます、、
"何もかもが 僕の観念によって歪められていく そしてそれだけが僕の真実だ"
最後に「真実」が発覚してしまいます、、
自分にとってはこの世の何もかもが苦しみにしかならないということ、、、
盗んだバイクで走り出すのが可愛く見えてしまいますね🙈
こんな歌詞を作ってしまう尾崎豊恐ろしや、、
むぎ自身は歌詞からこのようなメッセージを感じとりました🐥
ではではzzz